老師《らおしー》の玉手箱

先生方が玉手箱の中にしまっておきたいような大事な思い出話をしよう!という老師《らおしー》の玉手箱。

「6月4日」その2

前回ぼくは思い出すままに25年前の出来事を書き始めました。さすがに25年前となると記憶の細部はあいまいになっているので、当時の記録を取り出して読み返してみました。思い出話とはいえなるべく事実にそって書いていこうと思います。

胡耀邦氏の逝去は正確には1989年4月15日です。ぼくは4月下旬と思っていましたが、それは1週間後の4月22日に人民大会堂で開かれた追悼大会の印象が強かったせいで勘違いしたようです。

その2年前の1987年に、民主化運動に理解を示したせいで失脚した胡耀邦氏は学生や知識人に人気がありました。その胡氏が亡くなった日から、胡氏の名誉回復を求める学生や市民のデモが連日行われ、日に日に拡大していきました。

4月22日に行われた胡氏の追悼大会の席上、趙紫陽総書記が読み上げた追悼文は胡氏の名誉回復には全く触れることがありませんでした。
その翌日から、外国人留学生のぼくたちにもはっきりわかるくらい街の空気が変わりました。特に中国人学生たちの雰囲気が大きく変わりました。

それ以前から行われていた学生のデモが急激に拡大し、一般の学生たちが授業をボイコットしてデモに加わるようになりました。4月26日「人民日報」が社説で学生のデモを「反革命動乱」と批判すると、反発した学生たちのデモはさらに勢いをまし、翌日には10万人以上に膨れ上がりました。

ぼくの留学していた北京外国語学院は正門(西門)が「三環路(環状3号線)」という片側3車線の広い道路に面していました。そして学校の東門(裏門にあたります)を抜けてしばらく路地を歩くと331路という北京中心部と大学のある文教地区(北京市の西郊外)を結ぶバス路線が通る片側2車線の道路に突き当たります。

この日午前の授業が終わったあと友だちに誘われてこの331路を見に行ったぼくは驚くべき光景を目にしました。
人の波、というよりは人の川でした。4列から5列に並んだ学生たちが陸続と道路を歩いていくのです。それはいつまでたっても途切れることなく、あとからあとから人が湧き出てくるようでした。

北外の北には北京大学や清華大学をはじめ無数の大学が立ち並んでいます。学生たちはこれらの大学から天安門までの道を行進していくのです。不測の事態に備えるためか一番外側の学生は前後の学生と手をつなぎ外からデモ隊の中に人が入れないようにガードしていました。
こぶしを握り、シュプレヒコールを叫ぶ学生たちからはものすごい熱気が伝わってきました。

胡氏の名誉回復、「動乱」と決めつけた政府への反発から始まったデモでしたが、やがて少しずつ主張を変え要求を変えてゆくことになります。

5月1日から労働節(メーデー)の連休が始まります。あと1カ月余で1年間の留学生活が終わろうとしていたぼくは、デモの行方が気になりながらも連休に予定している「洛陽・西安」旅行の準備にとりかかることにしました。

北京には真夏のような暑さがやってきました。

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