老師《らおしー》の玉手箱

先生方が玉手箱の中にしまっておきたいような大事な思い出話をしよう!という老師《らおしー》の玉手箱。

「6月4日」その1

6月4日が近付くと不意に様々な記憶が浮かんできます。
ぼくは1988年9月意を決して中国に留学しました。1978年に始まった改革開放政策は10年目を迎え、至るところで「これからは中国の時代になる」という予言を耳にするようになったからです。日本は長い不景気を脱し、その後迎える「バブル」の前兆が徐々に現れているころでした。
首都北京郊外に広がる学園都市の中でも比較的中心部に近い「北京外国語学院(現在の北京外国語大学)」がぼくの選んだ留学先でした。

当時、中国留学はまだ一般的ではありませんでしたが、それでもぼくと同じようにこの巨大な国の未来に自分の将来をかけてみようと、多くの日本人留学生が集まっていました。北外(北京外国語大学の愛称)には全部で300人ほどの留学生がおり、その3分の1約100人が日本人でした。

まだ経済水準が発展途上国の段階にある中国の留学生活は、お世辞にも快適とは言い難く、不便で不愉快な出来事は数多くありましたが、それはここでは省きます。
留学して8カ月ほどたち、北京での生活にも慣れ、中国語も日常生活に不便がないレベルまで進歩してきたころです。89年4月下旬胡耀邦氏が逝去したというニュースが報じられました。

胡耀邦氏にはちょっとした思い出があります。84年胡耀邦氏は日中友好推進のため日本の青年3000人を招待するという計画を発表しました。当時大学生だったぼくは、指導教官からこの話を聞き、「うまくいけば無料で中国に行ける」と考えて応募しました。その後行われた面接審査の詳細は忘れましたが、結局中国行きの夢は実現しませんでした。

胡耀邦氏逝去のニュースを聞いて思い出したのは、この大学時代の出来事でした。中国側(繰り返しますが当時の中国は途上国です)の招待、つまり費用負担で3000名を招待するというくらいですから、胡氏は当然親日的な政治家であり、その逝去は中国の政治にうといぼくにとっても残念なニュースと受け止められました。

しかし胡氏逝去の衝撃は、一日本人留学生の感傷的な回想からは想像もつかない歴史的な大事件へとつながっていきます。そしてぼくの留学生活も、その後に想定していた進路も、大事件が巻き起こした大きなうねりに飲みこまれていくことになります。

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